校正や本づくりに関することなどを中心に、自由に、気まぐれにつづります。

2022/11  ご挨拶に代えて 

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ホームページをご覧くださりありがとうございます。校正者の齋藤です。

本づくりに携わるまでの経緯と、校正への思いを書いてみたいと思います。

わたしはものすごく活字中毒というわけでも、とりたてて文学少女だったわけでもありません。ただ、「本」というものが纏う、ある種の風格や気品めいたものへのあこがれが心の内のどこかにあって、それが自分を本づくりの世界に誘ってくれたのではないかと思っています。

 

その感情の芽生えは、幼いころ祖母が与えてくれたたくさんの絵本に心躍らせたり、好きな漫画の単行本を買うためにお小遣いをためたり…といった遠い記憶のなかの、「本ってなんだか特別なもの」という漠然とした気持ちだったかもしれません。

 
それが、年を重ねていろいろな本を手にするようになり、分厚い専門書の知識量に圧倒されたり、難解な推理小説の重厚な読後感に浸ったりするうちに、本のもつ力により惹かれ、「読む側からつくる側に行ってみたい」という思いに変わっていきました。大学で音楽学を専攻し、楽書をはじめとする特殊な文献を紐解いた経験も、その気持ちをいっそう強いものにしてくれたように思います。

藝大卒業後、編集の会社で本づくりのイロハを学びました。はじめて1冊の本を担当させてもらえたときの身の引き締まるような思いを、いまでも覚えています。また、本を一から企画したり、取材して記事を書いたりすることがいかに大変か、その産みの苦しみを体験したことは有益で、現在のモチベーション維持にもつながっていることは間違いありません。

 

その後、引っ越しや子育てによる環境の変化に身をゆだねながら、フリーランスという選択をして、今に至ります。編集から校正へと居場所はすこし変わりましたが、本づくりに関わり続けていられることを、とても幸せに思います。

 

さて。校正は、基本的には机に向かって大量の文字やことばと向き合い続ける、とても地道で、孤独な作業です。著者や編集者がつくりあげてきたもの(校正刷、以下ゲラ)を徹底的に読み、正すべきは正し、より伝わりやすい表現はないかと模索しながら、それが確かな信頼性を備えた「本」として世に出ていくためのサポートをする、それが校正者の役割です。


校正作業にあたるときは、まず何よりも真摯に、深く、ゲラを読みます。
著者や編集者の伝えたいことをしっかりと汲みとるために。

 
同時に、どこまでも客観的に、そして冷徹に、ゲラを読みます。
書かれていることが正しく、誤解なく、すんなりと伝わるかを吟味するために。

 
ネット上で情報が正否もわからないまま手軽に発信、共有、拡散され、炎上しているのを目にすると、なんだか心が痛みます。そんな時代だからこそ、そういった刹那的な情報とは一線を画したところに、本の存在意義があるようにも思えてなりません。

校正者の一人でしかないわたしにできるのは小さなことかもしれませんが、「1冊でも多く、いい本をつくりたい」という気持ちで、日々こつこつと、丁寧に、ゲラと対話しています。 


縁の下で、そっと本づくりに寄り添えるような存在でいられたらと思います。

そして同じ志をもつ方々との、制作の機会が多く得られることを願っています。


2022年11月

2023/10/21 たかが赤ペン、されど赤ペン

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校正に必須の筆記用具といえば、赤ペンである。 

“消せるタイプ”のボールペンが流行り始めたとき、「こんな便利なものがあるなんて!」と感激したものだ。「校正でもこれを使えば、もし赤字を書き間違えても、消して直せばいいよね…」と考えてしまったことは、事実である。 

 

だが、実際のところ、何年かお仕事をさせていただいている校正プロダクションなどからは、「消せるタイプは原則として使用しない」と指定されることが多い。単純に、摩擦や熱によって赤字が消えてしまう恐れがあるから、というのが一番の理由ではあるが、あるときふと、「赤字とは消せないもの。消えてはいけないもの。校正者はそれなりの責任と意思をもって入朱してくださいよ」ということを暗に言われたような気がして、ハッと我に返ったのだった。 

 

赤字を入れるというのは、地味に見えて、相当な責任を伴う作業である。「て・に・を・は」を一字間違えただけで、著者の意図にそぐわない文脈となってしまうこともあり得るし、人名などの固有名詞が誤っている場合(「高橋」と「髙橋」、「恵」と「惠」など)、確実に訂正しなければ、その人物に対して著しく敬意を欠くこととなるばかりか、本としても致命的なミスとなってしまう。

新人の頃、トレーシングペーパーにイラストの移動位置を赤ペンで指定してゲラに貼った際、数ミリ、貼り方が甘かったことがある。先輩から、「赤字っていうのはね、その通りに直されちゃうから、きっちり、丁寧に入れるのよ」と、すかさずダメ出しをもらった記憶が蘇ったりもした。 

 

フリーランスで働いていると、人間関係に振り回されないとか、自由に時間のやりくりができるとか、そういった点で解放されていることの身軽さはあるものの、他者からアドバイスを受ける機会が圧倒的に少ないため(一日の大半を紙とにらめっこしている私のような場合は特に…)、意識的に自分を客観視して、鉢巻を締め直す必要があると切に感じる。そうしないと、赤字を入れることの意味という最も基本的なことすら、頭から抜け落ちてしまう危険だって、あるのだ。 

 

正直なところ、消せるタイプのボールペンを校正で使ってみたことは、ある。もちろん、消して直せて、とっても便利だったけれど、やっぱりなんか違うなと本能的にも感じて、いまは消せないタイプ一択に戻っている。 



2023/11/18 校正、ときどき、ピアノ

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『校正のこころ』などの著書があるベテラン校正者・大西寿男さんが、以前テレビ番組(NHKスペシャル「プロフェッショナル 仕事の流儀」)に出演されていた。作業場であるご自宅で、校正の傍ら、ご自身で作ったという曲をピアノでポロポロと弾いておられたのを見て、勝手に親近感を覚えてしまった。 

 

というのも、私も校正作業の合間には、たいていピアノを弾いているからだ。 

まず、長時間の校正で疲れ切った脳と、凝り固まった体をリフレッシュさせるのにちょうどよい。さらに、校正という、常に“他者(著者や読者など)”を気にかけながら行う作業から離れ、純粋に“自分”と向き合いながら表現を追求する時間は貴重であり、気づけば自宅の練習室にこもって何時間も弾き続けている、ということもよくある。 

 

ピアノとは幼いころからの付き合いで、まがりなりにも音大に通っていたので、学生時代までは発表会やらコンクールやら試験やら、それなりに弾く機会が与えられていた。だが、出版の世界で働き始めてからというもの、日々の忙しさにかまけて一時的に疎遠になってしまった。仕事の達成感や充実感もあったので、弾く時間がとれないことに対し「このままでもいいのかも…」とも思い始め、何年かが過ぎていた。 

 

そんな矢先(5年ほど前になるが)、中学時代から音大受験までお世話になったピアノの恩師が亡くなったという報せを受けた。寝耳に水だった。早すぎる旅立ちに言葉を失いながら、20年ほど前、上京する私に向けて贈ってくださった言葉を、ぼんやりと思い出していた。「これからあなたの面倒を見てあげることはできなくなるけれど、この先、働き始めて忙しくなったとしても、1日2時間は弾くようにね!」。ピアノとはいつまでも繋がっていてほしい、というニュアンスを含んだ言葉だったと思う。 

「このままでは、やっぱりよくない」と思い直して、昔の楽譜を引っ張り出してきては、片っ端から弾くようになった。すると、おもしろいもので、昔は苦手だったパッセージが難なく弾けてしまったり、当時は理解しきれていなかった楽曲の構造がはっきり見えてきたりと、いろいろな発見があった。


確か、恩師のもとで最後に習ったのはベートーヴェンのテンペストかブラームスのラプソディーかバッハの平均律だったような気がするが、古い楽譜を見返しているうちに、間違いなく恩師の字で、私宛に“次に舞台で弾く曲”の名前が書かれていることに気づいた。

シューマンの『ピアノ・ソナタ第2番』。かなりの難曲だが、先生は当時の私に弾けるものとして想定してくださったということだ。これは、「もう一度ピアノに向かいなさい」という20年越しのメッセージかもしれない、先生に恩返しするつもりで取り組むしかない、と直感した。そして仕事の傍ら四苦八苦しながら何か月か弾き込み、まずは1楽章を何とか仕上げ、とあるステージで実際に弾き切ることができたのだった。

以来、仕事の合間に時間さえあれば弾くことが習慣化し、現在に至っている。試験にパスするためでも、いい賞をとるためでもなく、純粋に自分自身のために弾く。幼少期のようにとても素直な気持ちでピアノに向き合えているのが、なんだか嬉しい。

ちなみに、我が家には2人のリトルピアニストがいるが、彼らもまた毎日ピアノに向かい、コツコツと練習に励んでいる。彼らとともに私も学びを続け、歩みを止めないようにしようと思う今日この頃である。